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じょんのび考 その二
柏崎市高柳町では、昭和から平成に変わろうかという頃、原風景を活かし、交流観光事業を核とした町づくりに大きく舵を取ることになり、その基本理念が「住んでよし、訪れてよし」のじょんのび村構想であった。「じょんのび」という方言がどのような意味合いの広がりがあるのか研究しようと、じょんのび研究センターなる組織の立ち上げもあり、数年がかりで自然、食、ものづくりなどテーマごとに報告書もまとめられたが、合併を挟んでそのまま忘れ去ろうかという状況である。大きな柏崎市に合併して二年になる経験の中から、やはり高柳らしい価値、個性を表現することが、より柏崎全体を豊かにするはずと、わずか数名ではありますが、会合を続けております。メンバーの一人が、じょんのびの思想は「なつかしき未来を開く」、古くて新しい思想ではないかと言いました。その中には、循環する社会も見えてくる。ゆっくり、ゆったり、人が人らしく、お互いが思いやりながら、いつでも自然の中の一員として暮らして行く社会だ。だからこれは、高柳だけでは勿体ない。目覚しく発展を続けるその原動力である「変化」と対極にあるのがじょんのびの思想である。これは世界に向かって発信すべき価値があるのではないか。メンバー達は、じょんのび研究所を名前を変えて、一歩の実行に移すべく動き始める決意を固めた。難儀も工程するのがじょんのび、人が考えることではなく、想うことを形にしていくのがじょんのびだ。常に自然の側に寄り添い「必然」を検証しながら進めるべきだろう。もともと、自然は人に何一つ教えてはくれないけれど、多くの気付きを突き付けてくれる。頭からではなく感性がそれらを受け止める。その感性の中のみ「じょんのび」は生き続け伝えていかなければならない。
さて数十年後、わが街はどうなっているであろうか楽しみなことである。 (第52回) (2007年4月25日)
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じょんのび考 その一
じょんのびよもやま日記もいよいよ終盤になりましたので、今一度「じょんのび」について考えてみたい。この方言は、新潟県内の半分以上が使っていると思われる。特に中越や上越、富山県にかけて使われているようだ。しいて言えば、雪が多く自然条件の厳しい地域に重なっている気がする。いずれじっくり調査をしてみたいと思う。毎日が平坦で温暖な地方だったら「ああ、じょんのびい」という言葉を発する必然が薄いのかも知れない。人も社会も暮らしているその環境の中で育つものだ。
厳しい厳しい冬をお互いが助け合って、その後の開放感がお互いの口からはき出されてくる。いたわりや労いの心が込められているようだ。従って時代が便利になり、段々他人に世話にならずとも暮らせるようになれば、じょんのびと言う方言もまた廃れて来るのかもしれない。他者と自分との関わり、特に分かち合う心の中にじょんのびの心は潜んでいるであろう。従ってじょんのびの風景とは、それぞれの心の風景でもある。そして人が手を加え、その難儀や息使いが心に入ってくる風景である。例えば実りの秋、ハサの風景も雨の多い越後のハサは、高く高く空に向かって伸びている。見る人もあれだけ高い所までも稲束を架けるのは、さぞかし大変なことだったろうなあと、無意識の中にもその難儀を讃え、風景を人に近づけるのではあるまいか。そしてそこにもじょんのびの風景が重ね見えるようだ。
また、穏やかな心地よいそよ風や陽射しなど、特に小春日和など毎日続けば「じょんのび」とは言えない。日々生きている風景でもある。
僕にとって、一番のじょんのびの思い出は、数日に渡って雪が降り続き、四メートルを超え毎日毎日雪堀りを続けて、二週間ほど家の中は昼間も真っ暗潜水艦の中で暮らしているようなもの。ようやく、ようやく掘り出した風呂場の窓から外の光が差し込み、冷え切った身体をその湯舟で癒すとき、極楽浄土のじょんのびが、僕のあくびの中にあった。 (第51回) (2007年4月18日)
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紙干しの頃 その二
紙干しの季節、三月とはいえ、まだ二メートルからの雪があって、でも雪は降り積もるので雪面はやや硬くなっていて、その上によしずをおいて、さらにその上にムシロを敷くと野外の座敷が出来上がる。忙しい紙干しは、日差しが命なので、昼食は決まってこのムシロの上でおにぎりをほおばるのです。
また子供たちは、このムシロの上でトランプなどゲームをしたり、本を読んだり、また男の子達は、二枚敷きのムシロを土俵に見立てて、相撲をとって雪の上に投げ飛ばされたりと、この季節だけのなんとものどかな憩いの空間だった。
ちなみに小学校に入る前に、それまで”アンチャン刈り”といって、髪を伸ばしていたのを、母からバリカンで坊主頭に刈り取ってもらった場所もこの空間だった。実は、坊主が嫌で駄々をこねていたのを隣の子供が持っていた「マブチ・モーター」の小さいのが欲しくて欲しくて、それと同じものを買ってもらう約束で坊主頭になったのに、折り紙で誤魔化され、涙を流したのもこの空間だった。
今年の冬は、わずかにやせ細った雪がまばらにあるのみで、なんとも不思議な景色である。我が家の屋根の下に溜まった雪を集めて、辛うじて雪室(ゆきむろ)を作りその中でかんぐれをして、干し板は、雪の上ではなく土の上に置かれている。昔と同じ工程を踏んではいるのですが、環境が変わることによって、その風情も人の心も何か薄っぺらになっていくようで、切ないものがあります。
紙の作り手も、また使い手も難儀を避けよう避けようとしている。何だか心構えからして生きる姿勢が崩れ出しているような気がするのも自分が年をとった証拠なのだろうか。 (第50回) (2007年4月11日)
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紙干しの頃
紙を一枚ずつ漉き上げ、重ねられた塊を”くれ”といいます。この”くれ”を雪の中に入れておくことを”かんぐれ”といいます。昔は乾燥機などなかったので、一月から三月まで漉き続けられた一くれ一くれは、三月の晴天がやってくるまで腐らないように、また凍らないように雪の中で眠ってもらっているのです。雪が降り積もっても分かるように、竹竿を目印に立てておきます。
三月の晴天の日を待って、いよいよ紙干しの季節、雪中から掘り出されたかんぐれに板一枚載せて、その上に四つん這いになって水を搾り出すのですが、その母の背に子供の自分が乗っかって、さらに目方をつけるとかんぐれの端からジブジブと小さな音とアワが水となって湧き出てくるのです。この水分の絞り加減で、紙が板にくっ付き過ぎたり、水が足りなくて乾く前にシワになったりします。小学生になると「板持ち」といって、母が紙を板に貼り付ける、そのそばで板を持って立っている。髪を貼り終えると板と板の交換をする。
春の日差しは短いので、少しでも多く板に紙を貼り付け、一日三束(さんぞく)つまり千二百枚を目安に干すので、一時の時間も無駄にできない。そこで、板持ち係が脇で待ち構えているのです。雪の上に”ふかぐら”という丸太を立てそれに細い丸太を横に縛ったなげしを作り、板はそのなげしに並べられる。板持は、そのなげしを干し場の間を、板を横に担いでいったり来たりするのです。
日差しが弱まった頃、貼り付けた紙が乾くと板持ちは紙剥ぎをするのですが、まだ乾ききってないのを剥いでしまったり、またつんつんと張った状態で剥がないと紙が丸くなったり、そもそも板にくっ付いている紙は、爪を伸ばしていないと端が取れなかったりと、叱られ叱られの紙干しでありました。 (第49回) (2007年4月4日)
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紙漉き その1
紙を作る仕事の中で、一番難しく緊張感を伴うのが、やはり紙漉きの工程だと思います。原料処理の段階では多くの手間を掛けるとか、より丁寧に仕事をすることでカバーもできようが紙漉きはそればかりではない。瞬時の動きが決め手になる所が多く、教えて教えられない部分でもあります。つまり頭ではなく、感覚で身体が動くようにならなければならない。物作りには、常に前工程がその後の工程より決定力を含むことが多いのですが、紙漉きは、初めて紙という形を生み出す工程で、最もその良し悪るしを決めてしまいます。しかも最初の一すくいを「化粧水(けしょうみず)」と言いますが、これこそ紙を決定付ける一すくいなのです。漉き舟の中の原料を水とネリの具合がほど良い加減にしておくことはもちろんのことですが、この最初の化粧水によって、漉き簀の表面を水というか、原料を均一に渡らせなければいけない。組み込んだ水が一瞬たりとも止まらないように、その水の速度が緩んだだけで繊維が簀面にくい込んでしまうときもある。こうした時は次の乾燥で紙を一枚ずつ剥がす時にその障害が現れる。一日の中でも仕事を始めたばかりは、どういても頭が身体に命令して水を操ろうと必死になるが、暫くすると身体の感覚が水に馴染んでくる。
次第に頭は逃げ出し、身体だけが反応するようになって、水を擦りつけ、叩いたり浮かしたり、飛ばしたりと水に逆らわないようにさりとて、自らが求める紙のイメージに近づけるリズムを作り出さなければいけない。そのリズムに水と自分が一体になれれば極上の気分なのですが、実際は、自分の身体がいうことを効かなかったり、また水の方が嫌ったりと、その時々の条件に左右されます。漉くほどに覚えることのない紙漉きです。 (第48回) (2007年2月28日)
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寒中の紙漉き その2
寒中の紙漉きがよろしいのは、ネリの働きだけではありません。和紙の原料は、植物の樹皮を使いますが、その樹皮の中には繊維だけではなく、非繊維質の言わば繊維を骨とするなら肉の部分が含まれます。これらは紙の表情を豊かにしてくれたり、強度を補強してくれたり、或いは水に強くしてくれたり、隠し味のような働きをしてくれるのですが、その旨みを虫も知っているので、虫に食われやすくなったり、カビを呼び込みやすくなったり、欠点も合わせ持っています。
いずれにしましても、煮たときから原料は、なま物ですから腐れとの競争になります。現在は冷蔵庫とか、強制乾燥などの設備があるので夏場も仕事をしておりますが、じっくり手間を掛けたちりより、紙叩きなどやっている内に腐ってしまいます。しっかり気合が入った和紙作りには、気の遠くなるほどの手間がかかります。寒中の季節、腐る心配のない時でなければ、よくよく安心して作業が進められないのです。
また紙漉きの際、冷たい水の方が紙の結合度も強く、締りのある強い紙が漉けます。他に原料の雪晒しなどの自然漂白や板干し天日乾燥も、雪のある季節がより白く、湿度のある状態でじんわり乾燥した紙は一味違います。
また紙漉き場もしっかり雪に覆われ、外界を断ち切った時期が、一心に漉き舟と向かい合い精神が安定します。春先になって、窓の外に色が見えてくると、どうしてもソワソワとした気持ちが紙に現れて怖いものです。また一番恐ろしいのは、10年、20年と年数を経た紙ほど自然の摂理に従った紙と、人工的に作った紙の差が歴然と見えてくるものなのです。後世の人の目は誤魔化せないのです。今を乗り切ったとしても、未来は正道を歩むより他ないのです。 (第47回) (2007年2月21日)
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寒中の紙漉き その1
紙を作る仕事の中で、一番難しく緊張感を伴うのが、やはり紙漉きの工程だと思います。原料処理の段階では、多くの手間を掛けるとか、より丁寧に仕事をすることでカバーもできようが、紙漉きはそればかりではない。瞬時の動きが決め手になるところが多く、教えて教えられない部分でもある。
つまり頭ではなく、感覚で動くようにならなかればならない。モノ作りには、常に前工程がその後の工程より決定力を含むことが多いのですが、紙漉きは、初めて紙という形を生み出す工程で、最もその良し悪しを決めてしまいます。しかも最初の一すくいを「化粧みず」といいますが、これこそ紙を決定付ける一すくいなのです。漉き舟の中の原料と練りの具合がほど良い加減にしておくことはもちろんのことですが、この最初の化粧みずによって、漉き簀の表面を水というか、原料を均一に渡らせなければいけない、組み込んだ水が一瞬たりとも留まらないように、その水の速度がゆるんだだけで繊維が簀面に食い込んでしまうときもある。こうした時は次の乾燥で、紙を一枚一枚剥がすときにその障害が現れる。一日の中でも仕事を始めたばかりは、どうしても頭が身体に命令して水を操ろうと必死になるが、しばらくすると身体の感覚が水に馴染んでくる。次第に頭は逃げ出し、身体だけが反応するようになって、水を擦りつけ、叩いたり、浮かしたり飛ばしたりと、水に逆らわないように、さりとて自ずからが求める紙のイメージに近づけるリズムを作り出さなければいけない。そのリズムに、水と自分が一体になれれば極上の気分なのですが、実際は、自分の身体がいうことをきかなかったり、また水の方が嫌ったりと、その時々の条件に左右されます。漉くほどに覚えることのない紙漉きです。 (第46回) (2007年2月14日)
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冬模様
雪降ろしの雷が、ドーンと家を揺らして鳴り響く。その後、音もなく小さな小さな乾いた細雪が降り続く。寒い寒い時の降り方であり、こうした雪が降る時は、大概寒波が居座り何回も続く。かんじきで踏み付けるとキュッキュッと音を立て、横に滑りそうな雪である。今冬は、そのような雪は降らず、水気を含んだボダ雪である。雪の結晶すら削れて仕方なく嫌そうに降りてくる。すぐにしただまるので雪かさはさほど増えない。正月つきが終わろうというのにまだ一尺余り。通り道はすっかり雪をどけてサンダル履き往来できるなど、不気味極まりない状況で、穏やかな晴天も多く、何か勿体無い気がする。従って本来なら4月の風景であるべき年寄り達の移動しながらの井戸端会議があちらこちらの道端で繰り広げられている。
雪掘りの好きな僕としては、何とも張り合いのない冬である。屋根の上に上がって周りの景色を見ながらの仕事は、普段の目線と違って周りを一望に見渡せ、とても気分がいいのです。単調な仕事ながら思い通りに雪が動くと気分は最高。普段の仕事でこれほど疲れる仕事もない。時折休んで食べるみかんなどが喉を潤して美味しいのだ。どうしたことか疲れさえも気持ちが良い。いや、この疲れ方は、僕にとって特別なもので無心に近いものがある。座禅を組んでいる人がこうした境地になるのかも知れない。そこに雪があって、ただただ何も考えず無心に彫り続ける。その疲れが業にも似た気分にさせるのであろうか。瞬時に移ろう白い風景は、この世にもこんな風景があったのかと驚き感動する。しかも瞬時に次の場面に変わる時、生きてこの舞台に自分が自然の一部として登場できる切なさと嬉しさが込み上げてくる。
恐ろしくも美しい、この雪の国に生まれて本当にありがたいと思う。 (第45回) (2007年2月7日)
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雪は天からの使者
どうしたことだろう。大寒というのに雪が降りて来ない。一尺足らずの雪は、この地で暮らす、特にお年寄りには願ってもない安心だ。この正月つきを、一日一日指を折るように、天が抜け落ちぬようにひっそりと願っていることであろう。また同時にこの天地の異変が何を意味するのか、漠然とした不安にかられているのでもある。雪は本来降らなければならないのだ。
僕は、この冬が52回目だ。記憶の中で4メートルを超える積雪が4回あった。そんな年は、毎日毎日、厭きることなく降り続き一ヶ月も続く。一晩に1メートル積る日もあり、朝一番の道つけも、スコップで雪を押し付けかき払いながら一歩一歩前へ進む。足の付け根も痛くなる。毎日ただただ黙々と掘り続けても追いつかなくなると恐ろしくもなってくる。あきれ果てた顔をしばし天に向けていると、自分が天に吸い込まれるようだ。
今年は本当に夏がやってくるのであろうかと不安になる。雪がもし黒かったら、この地に住む人はいないだろう。雪の白いのは神からの贈り物であろう。
雪ほど恐ろしくもまた美しいものはないと思う。
この地で暮らす人々の心をたくましくも、そしてやさしくもしてくれる雪。一人では生きられない、お互いが心を配りながら、一緒に冬を乗り切る。もちろん雪捨て場などで喧嘩になるときもある。しかし本当に困った時は、お互い助け合うのだ。人だけではない、この地に生きているもの、スズメやタヌキ、山ウサギ、そして杉やブナの木に対してだって
「がんばれよ」と声をかけている。一緒に春を迎えようと励ましあうのだ。便利になりすぎた現代の生活の中にあって、人が人を心から気遣うことが少なくなってきている。雪は現代においても人が人らしく生きているか試すため、天が地上に送り込んだ使者と言えなくもない。 (第44回) (2007年1月31日)
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小正月
1月15日は、小正月、16日は薮入り、昔、16日に仕事をしようとして母に叱られたことがあった。地獄の釜のふたも開くといって、その日は仕事をしてはならない日とか、というのも嫁が実家に帰って、正月疲れを癒す日でもあったそうだ。その小正月さえも、いつの間にか成人の日がくい込んできて、そしていつしかその日が第2月曜日に変わり、小正月が消えてしまった。日本の文化の大切な部分が消えかけている。
小正月は鳥追いをして、その後朝食に汁粉を食べる。繭玉飾り、当地では小正月飾りとよんでいますが、ミズキの枝に餅を刺して飾ります。たぶんこのことからか、このミズキをダンゴの木と呼んでおります。つきたての餅を竹輪のように丸め、5本の箸を外側にくい込ませて紐で縛る。翌日固くなったところで輪切りにするとちょうど桜の花びらの形になり、それをダンゴの木の枝枝に差し込みます。また金火箸の先に、丸い鉄板がくっ付いたようなせんべい焼きの道具に、薄く切った餅を挟んで、囲炉裏で焼く丸い形のせんべい。それを細く切った和紙にご飯粒をノリ代わりにくっ付けてその枝に吊るすと、小正月飾りの出来上がり。二十日正月まで飾ります。その後、その花びらは焼いて食べます。
今年1月13日、鳥追いの前日、門出かやぶきの里では、地元の小学生15人が泊まり込みで、ひと昔前の小正月体験をしました。先ずは、小正月飾りから始め、座敷いっぱいに広げられた枝枝に花餅を飾り、それは各自が家に持ち帰ります。その後囲炉裏にどんどん火をくべ、煙の出ない火のくべ方を教え、置き火が溜まると焼き豆腐、せんべい焼き、クルミやギンナン、ついでにリンゴを焼く。夕飯は、雑煮、汁粉、黄粉餅のフルコース、デザートは焼きリンゴ。遊びは、将棋、花札、宝引き(ホウビキ)キャーキャーとはしゃぐ子供達の声、降る雪の中、かやぶきの家の中は暖かく、賑やかな夜でした。
(第43回) (2007年1月24日)
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鳥追い
小正月15日、早朝というか日の出前、門出集落では鳥追い行事が行われる。どんどん焼きに殆んど似ているのですが、鳥がまだ目を覚まさない暗闇の中で行い、日が昇れば終了です。
雪の上に高く積まれた稲わらを燃やし、子供達の顔が赤々と見える中、拍子木を打ち鳴らしながらはやし立てる。「アララガトリカ、コララガトリカ、シリキッテ、カシラキッテ、サドガシマヘ、ホワーイ、ホワイ、サドガシマ、セッカナキャ、ノドガシマヘ、ホワーイ、ホワイ、ジロドンガトリカ、タロドンガトリカ、アワドリ、コメドリ、パッパトタチアガレ、ホワーイ、ホワイ」と追い立てるのです。
追われてきた鳥を佐渡の人はどこへ追い払うのでしょう。最後に朱鷺が残ったのもうなずけると言うもの。ちなみに私の弟の嫁は佐渡出身だから複雑な思いではやし立てていることでしょう。
この鳥追い行事、私が子供の頃は、門出集落でも道上、道下、宮村の3箇所に分かれて行われていた。年寄りに聞くと、昔は酒を酌み交わしながら、鳥追いのおはやしも即興でヒワイとでも申しましょうか、なまつけねえものになったりしたそうだ。「ミヤンダキノ、オンナチョハ、ケツデッカ」とか他地区との即興合戦だったようである。そのまた昔は、ここの家の入り口付近でワラを燃やしての鳥追いだったそうだ。
現在は、門出かやぶきの里周辺の広場で、子ども会を中心に、するめを焼いたり、正月飾りや書初めの紙を燃やしながら続いている。今も昔も変わらないのが、子供達は途中で脱走して、雪の斜面を転げ回ったり、雪穴で遊びキャーキャーと騒ぎ立てている風景である。
日の出頃、カップラーメンをすすり、それぞれの家族が家に帰っていく。 (第42回) (2007年1月17日)
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年越しの頃 その2
子供の頃、初詣の風習は我が家にはなくて、小学校の作文に同級生が神社にお参りして、勉強ができるようにお祈りしたなどと書かれていて、不思議に思ったほどだった。いつ頃か自分でも門出神社にお参りに行くようになり、紅白が終わるとぞろぞろと出かける。途中の道すがら、出会う人が突然のように口々に「明けましておめでとうございます。と言う。それは不思議な気分であり、ちょっと照れくさい気分でもあります。
若い頃は、神社にその年の望みや安全などを祈願していたけど、やがてこれまで無事に生きてきたことへの感謝のお礼も合わせてお祈りするようになった。そして40歳を境に来る年への願いはせず、ただただ今日ある無事を感謝する祈りのお参りの変わった。それから、ならば新しい年にお参りするのも変なものだから、ここ数年は年越し直前の1年の終わり頃をめがけている。
しかし、考えてみれば夜中の12時を境をするのもおかしなもので、とても人為的である。自然の道理に従うならば、日の出か日の入りの筈であろう。或いは満月か新月か、以前、イスラエルの弟子のイズハーとパレスチナの村を旅したとき、同じ祭りを夜から始める村と朝から始める村があった。聞いてみると、この村は日が沈むと新しい日が始まるからお祭りが始まるのだと言う。すると、我が郷土では、祭りは宵祭りから始まるので、日が沈んだときが新しい年になると考えるべきか。
正月早々理屈ぽい話になって恐縮でしたが、自然の道理に根ざして生きたいと願う、我が身のもがみでもあります。
どうか来る年が、より豊かな心を持ち、分かち合いたいと思う人々でごった返すような社会、そして何より謙虚な心で、より自然の子供に近づくような社会、それが望みです。 (第41回) (2007年1月10日)
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年越しの頃 その1
子供の頃、やがてやってくる正月を何より楽しみにしていた。今のように共同年賀ではなかったので正月3が日は、親戚中がぐるぐる入れ代わり、立ち代り回る。家と家をつなぐかんじき道は、酔っ払いの脱線の跡があちこちと、どぶった人型がついている。おまけに小便の痕跡まで残っている。雪道は証拠だらけの道となる。
さて、その酔っ払いたちは、年始の挨拶が終わると、必ず子供にお年玉をくれるのです。座敷の奥、おび屋の入り口近くには必ず小さな掘りごたつがあって、囲炉裏の置き火を時折、ジュウノウで運ぶ。熱すぎないようにデがあるように灰をかけて、冷えてくるとその灰をほじくるのです。年始回りの客が玄関を開け、パンパンと雪を払う音が聞こえてくると、慌ててそのコタツに駆け込み、そしてお年玉をくれるのをちょっと気恥ずかしさと期待のまなざしで待っているのです。
大晦日の夜は、およそ料理に手を出すことのない親父が、せっせと囲炉裏の周りで、平櫛に豆腐を刺しながら焼き豆腐をあぶっている。ワタシの上には、ヤツガシラの親イモを輪切りにして、また色鮮やかな人参が短冊切りにされて焼かれている。囲炉裏の中央には、カギンサマに吊るされた大鍋にコンニャクが入っている。こちらはバアサンが盛んにかき混ぜている。このコンニャクイモを親達が下ろし金でするのを真似して、手伝いと言うか邪魔をして随分手がかゆくてしょうがなかった記憶がある。お袋は、煮干の親分に昆布を巻きつけ縫い糸で縛っている。囲炉裏にどんどん火をくべ、置き火をワタシにかき、ついでに渋柿などもあぶる。ジブジブとアワ粒のように水分が抜けてこんがり焼けた渋柿の甘いこと。家族総出で正月のごっつおごしらえをして、実に寒い季節の暖かい風景だったことか。今年の大晦日は、ぜひ門出かやぶきの里の囲炉裏を使って再現してみたいものだと思っている。 (第40回) (2007年1月3日)
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もちつき
毎年、クリスマスの頃の我が家の伝統行事になりつつあるのが一俵餅の日です。
もう20年になります。正月用に親戚やお世話になった方にお配りするため、両親と西のかあちゃんが手伝って始めたのが、女房、弟、その嫁、そして子供達が大きくなり、つきたてのもちをナイロン袋の中で伸ばす係りから、中学生になるとつく係りに代わり、手返しもお袋から女房や弟の嫁がするようになり、つく量も年々増えて、一臼四升を15臼つまり一俵半が基準となった。
変わらないのがケヤキの臼で、町の雪祭りの初年度、巨大餅つきに一俵餅をつくとき、臼がまだ間に合わなくて我が家の臼を使った。
この大きな臼は、大正時代のものだ。山桑の木で作った杵も木製のセイロも、僕が子供の頃すでに古かった。蒸すのも、紙煮のとき使う水が360リットル入る大釜だから3段重ねのセイロもすぐ蒸し上がる。僕が子供の頃、父と母が二人つきでつく餅つきを、階段の中段あたりに座って応援していたのを思い出す。今のように白い餅ばかりではなく、増量材として、イリゴというくず米を粉にしてヨモギの葉を加え、混ぜてから餅つきが始まる。この餅は、白い餅より早く焼ける。食べると粘りがなく、クチャン、クチャンとして僕は嫌いだった。両親に栄養があるのだからと言われ、これを2枚食べると、白い餅1枚がようやくあてがわれた。冬の朝食は決まって餅雑炊だったが、囲炉裏で火をくべながら、家族全員の朝げは今は懐かしい。多少鼻水入りの隠し味の一俵餅、きわめて好評で身体が続く限り止められそうにない。 (第39回) (2006年12月27日)
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